Kedi Channel

独身女、ニューヨーク。これからの人生を考える。

ウズベキスタン 日本人抑留者について (タシュケント)

今日8月15日は終戦記念日。

ソ連軍に満州から連行された日本人捕虜のシベリア抑留については知られているが、当時、ソ連領だった遠い中央アジアへ連れていかれた部隊については、日本でも知らない人が多いのではないだろうか。

私がこの夏訪れたウズベキスタンには日本人約25,000名が、当時のソ連ウズベク共和国に移送され、各地で強制労働に従事させらた。過酷な労働により抑留中になくなった方は1008名とされ、ウズベキスタン各地の日本人墓地に埋葬されている。

過酷な抑留生活の中、ソ連四代大劇場の一つナボイ劇場の建設に関わった部隊もあった。彼らに関しては、嶌信彦氏の著書『伝説となった日本兵捕虜』に詳しく語られている。

このブログでは、私が幸運にもお会いすることができた、日本とウズベキスタンの歴史の記憶に人生を捧げている二人のウズベキスタン人を映像で紹介したい。

タシュケント日本人抑留者墓地管理者、Miroqil Fozilov氏

日本人収容所が複数あったウズベキスタンには、各地に立派な墓地が建設されており、タシュケントの墓地には79人が埋葬されている。

Fozilov氏は彼の父親から始まり3世代に渡って、墓地の管理に携わっている。1991年にウズベキスタンが独立した後は手当も支給されるようになったが、それまでは無償だった。

彼の父親は彼にこう教えたという。

”民族が違っても人はいつも仲良くしなければならない。遠く離れたこの土地に連れて来られ、強制労働をしなければならなかった日本の人々には何も罪はない、だから、ここで亡くなり故郷に帰れなかった日本人の世話は、ここに住んでいる自分達がやらなければならないのだ。”  出典:『ウズベキスタン の桜』中山恭子著 p.215

 Fozilov氏へのインタビューは2部に分かれていて、上にリンクしたのは第1部(終了後には第2部へのリンクが出る。)彼の人柄が伝わってくると思う。

ちなみに日本人抑留者墓地の隣には、小さいがドイツ人抑留者墓地もある。歴史も世界もつながっているのだ。

タシュケント日本人抑留者資料館館長、Sultanov Jalil氏

Jalil氏は、日本人ゆかりの収容所や墓地などの資料や証言を収集し、タシュケントの日本人墓地近くにある自分の敷地に、1998年、私費で「日本人抑留者記念館」を開館した。

私が訪れた時には、資料館拡大の為に改築中だったので、展示物を拝見することができなかったが、平常時には抑留当時の写真や資料、抑留者が現地の人に贈った手作りのゆりかごなどが展示されている。

とても残念なことに、私のカメラ設定のミスで、映像は良質とは言えない。(Chrome以外のブラウザーを勧める。)インタビューは5部に分かれており、ここにリンクするのは第1部。日本人へのメッセージもあるので、是非、観てもらいたい。

もっと知りたいという人に

ウズベキスタン日本抑留者についてはネット上での情報は少ないが、とても参考になる本が出版されている。是非、手にとって読んでみて欲しい。

  • 『ウズベキスタンの桜』在ウズベキスタン日本国大使を2期勤めた中山恭子氏の著書。Fozilov氏も中山氏に会った時のことを話してくれた。

戦後、引揚者のほとんどが京都舞鶴港を入港先・帰還港とした。引揚に関わる一連の資料を展示する日本唯一の施設として設立されたのが、舞鶴引揚記念館

まとめ

日本人にとっては馴染みの薄い、遠い異国のウズベキスタン 。

この夏の旅行でこの国に魅了された私は、なぜか「ウズベキスタンのことを(特に日本人に)知ってもらいたい。文化だけでなく、日本との歴史的関係のことも知ってもらいたい。」と強く感じている。

少し重くなったが、今回のブログが少しでもウズベキスタンに関心をもってもらうきっかけになったら嬉しい。Fozilov氏やJalil氏のインタビューも含めたウズベキスタン旅行のYouTubeプレイリストのリンクを貼っておく。